自分でも読み返すと意味が分からない自分の発想をクラゲの写真と共にお楽しみください

自称サバサバ女(これをAとする)を批判する行為を

!A=B(Aの否定=B)とした時、

A=!Bであることから、

『自称サバサバ女を叩く行為の本質は自らを「女らしい女」と定義づけることである』

と考える自称サバサバ女のことを批判する証明問題

猫嫌いな人は猫に対して1次元方向の斥力を持っていると仮定した時、

猫好き(猫に対して引力を持つ人)が猫嫌いの対局に存在することで

猫のベクトルが一致して全員幸せになれる

(ここで猫嫌いと猫好きの間をつつつつーっと移動する猫を想像してほしい)

褒めて伸ばすというのはユーザーエクスペリエンス(ユーザー体験)上でも重要視されていて、

例えばソーシャルゲームのログインボーナスは「ゲーム起動してえらい!」なので

現実世界のアクティブ率を上げるためには、恋人や家族あるいは友人から多少大げさに褒められる機会、および運営からのプレゼント配布を実装する必要がある

死生観というほど大層なことではないけれど、死ぬのが怖いというのは「意識を失って倒れるのが怖い」というのと同義な気がする。

実際に気絶した瞬間、私の場合は「あ、やばい」と思ったら目覚めた時には床に転がっていたため、死ぬ瞬間も「あ、やばい」くらいの感覚で、結果的に死んでるのではないか。

そう思うと、気絶と死の違いって、主語が一人称か否かくらいの差しかないのかもしれない。

ちなみに私自身は死ぬことが怖いとは思わないが、まだ死にたくないなあとは思っている。

理由はまだまだやりたいこと、作りたい物があるためで、それらが無くなったときは死んでも良いということになる。

けど、もし万が一 自分から行動欲が消え失せたとしたら、その時点で死んでそうな気はする。

時々、自分の考えや行動が正しく評価に値するということを、他人の言葉によって確信したい瞬間がある。

そんな時には気心知れた相手に「これすごいねって言って」と具体的なリクエストを投げかけるようにしている。

私は基本的に建設的な議論が好きなので、原則、成果物に対して手放しの賞賛を強いることは酷だと考えているけれど、時にはハッピーセットのおもちゃだけを享受したいというか、相手の物差しを考慮せず承認欲求を満たしたくなる。

軽薄で中身のない安いコミュニケーション、と批判されそうだが、他人に負荷をかければ自分の身が危うかった私なりの、精一杯の甘えでもあるのだ。